先日、突然の電話がありました。宮城県に住む元同僚からです。20年ぶりくらいに聞く懐かしい声。変わらぬおっとりとした話し方。しかし彼女が成し遂げた、といいますか、家業を守り続けてきたことへの尊敬の念を抱いて会話を終えました。
「守る」ということは、ひょっとして「攻める」ことよりもエネルギーが必要なのかもしれないな、と思いながら・・・。
「守る」というと子供や病人などの弱い者を守る、サッカーでいえばデイフェンス、野球では守備ですよね。ただ今日はそれらの守りというよりも、ずっと前からあったものを「継承」するという意味での守りを中心に考えてみます。
捨てる勇気と守る勇気
断捨離だミニマリストだと何かと物事を「捨てる」方向へ誘う傾向の今日。そういう私も捨てるの大好きです、いらないと判断したらですけどね。
「捨てる勇気」って思い切りの良さ、という意味も含まれていると思います。えいやっ!と捨ててしまったら、もう無いのだからスッキリ~。これ物だけじゃないんですよね、権利とか地位とかもね、手放してしまえば最初は寂しいかも知れないけれど楽になるはず。
だから捨てるための「勇気」ってのは一瞬のエネルギーだと思います。あとは無いことへの慣れとスッキリ感。
ところが守るための「勇気」というのは違います。慣れはともかく、スッキリ感とは程遠いような・・・。どちらかといえばしっかり感?かな。
しっかり守らなければならないんです、そこにある物事を。伝統技術だったり家業だったり。守ることを要求されるケースはいろいろありますよね。
思い切って捨てて新しい道へ進めば良いだけ、なのでしょうけれど、そうはできない事情、心情があるのが人生。
ユーミンのことば
今から30年以上も前、江戸でアパート暮らしをしていた頃のことです。テレビがなかった私は、毎日ラジオでFM放送を聞いていました。たまたまユーミンの番組で、彼女が視聴者からのはがきを読んだ後に言った言葉が印象的でした。
そのハガキに書いてあった相談事はすっかり忘れました。おそらく家業を継ぐか継がないか、というような内容だったと思います。
それに対してユーミンは確か「継がなきゃいけないときもあるんだってば」というようなことを言っていました。ユーミン自身は覚えていないだろうけれど(笑)。私の心の隅には今も残っているのです。
自由に生きていそうな(勝手にそう思っていた)ユーミンの口からそんな言葉が出たこと自体にちょっと驚きました。ともすると「自分の人生なんだから、自分で自由に生きればいいんだよ」なんて言いそうな気がしていただけに、意外でもありました。
そして彼女の特別なファンではないけれど「ユーミンってやっぱりすごい人だな」と思った瞬間でした。
まあね、他人の人生に軽はずみなことは言えないとは思うけれど💦、彼女が自由ということばを使ったきれいごとだけで回答しなかったことに、当時の私は感心したというわけです。
自由
先の宮城の元同僚ですが、東京で数年暮らした後、故郷に戻りお寺を継いでいます。お婿さんをしっかり見つけて一緒に宮城に連れてったというお手柄付きでね(笑)。
彼女の心の中には、自分がお寺を継がなければならないのだ、という自覚があったことは確かです。会話からそれを垣間見ることができたから。
お互い故郷に戻ってからは、年に一度の年賀状だけのお付き合い。3人の男の子の母親になった彼女。長男が東京の大学に通うことになったと賀状に書いてきたことがありました。
ただ仏教系の大学ではなかったので、長男にはお坊さんになることは強要しなかったのだろうと思っていました。今どきの親はたいていは子供の「自由」を尊重するものだから。
ところが何と、今では彼女の息子さん3人ともお坊さんなんだとか!正直驚きましたよ。ひとりお坊さんになっていればヨシじゃないですか。それが3人とも~。
自分のお寺は長男が継ぎ、下の二人は必要とされて別々のお寺でお坊さんをしているそうです。
「良く育てたね~」と思わず私。
「東京で好きにさせてもらった後、(実家に帰ってきて)こうして3人の子をお坊さんに育てることが私のお勤めだったのかな~、なんて思うんですよ」と相変わらずおっとりとした口調で返す彼女。
私の心はピクッとしました。彼女はすごいな、と感動したのです。
隣のお寺の方によると、後継ぎがいなくてお寺をやめるケースがけっこうあるようです。この時代それは十分ありうることでしょう。
「生まれた時から僧侶になると決められているなんてかわいそう」だなどと言われることもしばしば。私はその「可哀そう」という上から目線のことばを聞くたびに不快になるんですけれど。
「自由」ということばの響きは良いものです。人間の誰もが基本自由であるべき。でも100パーセント自由という人間は、たぶんいなんじゃないかな。自由に自分の道を選んでも、その中でまた縛りがあるのが常。
自由に生きていそうな人が意外とそうでなかったり、不自由そうに見える人がわりと自由感が強かったり。それは第三者にはわからないもの。
肝心なのは心の中の自由度、ってことかな。
さいごに
サッカーでは華麗にゴールを決めるフォワードに対して守りのゴールキーパー。野球でもピッチャーやホームランを打ったバッターに対して守備のキャッチャー。
ゴールキーパーもキャッチャーも攻めとは異なる力、それも強~い力が必要。どっしり構えてかからなければいけませんし、忍耐が不可欠ですよね。他のポジションに比べて一見華麗さに欠けるかも知れないけれど、守りに対するエネルギーはそれは大きいはずです。
続いてきた物事を受け継ぐというのも、何だかスポーツの守備に似ているような気がします。脈々と続く強いエネルギー。
世の中には代々受け継がれてきた物事がいろいろあります。私たちがそれらを利用したり楽しませてもらえるのは、その技術や芸術、サービスなどをしっかり守り続けてくれる人たちがいるからだと再確認する今日この頃です。
守りのエネルギーに心から感謝!