旅立つ人のお見送り

今日、すぐ隣の浄土真宗のお寺でお葬式がありました。近所の同級生のお母さんが亡くなったのです。84才でした。若い時から声が高くて、その声はずっと変わらない人でした。

特別親しくお付き合いした間柄ではなかったけれど、やはり寂しいものです。

葬式もいろいろ

最近では簡素化傾向ということもあり、家族葬が流行っているようです。都会だけではなくて地方でも同じことです。

昔のような面倒な儀式は極力避けたいと思うのはどこでも同じだと思います。地方でも自宅で葬儀をするケースはかなり減っていると思います。

少なくとも私が住む地方の町では、葬儀場を利用する家がとても多くなっています。楽はお金で買うというわけです。葬式は疲れますからね。

都会などではごく身近な家族数人でお見送りという場合もあります。もちろん無宗教で行う葬儀もありますしね。「死人に口なし」ですから、残された家族の考え方が葬儀のやり方に反映するわけです。

もちろん遺言に従うというやり方もあります。今日お見送りした同級生のお母さんは献体に申し込んでいたそうで、葬儀の後ご遺体は火葬場の代わりに病院へ運ばれました。

なるほど、献体ね。私も考えてみようかな。生きているときは大して人の役には立てなくても、せめて死んだ後にお役に立てるのであれば良いじゃないですか。調べて見ようかな。

私の遺灰はカリブ海に撒いて欲しい、などと思ったりします。でも運んでくれる人たちが現地に行くまでの航空券代とホテル代を残しておかないと。その前に散骨可能かどうかを調べておくことが必要ですしね。

国内の海への散骨を取り扱う散骨会社もあるようです。ちなみに海への散骨は海洋葬というのですね。「生前予約」までできるようですよ。ちょっと興味津々。あっ、でも献体だとすぐに散骨は無理かも。う~ん、迷うところです。

いずれにしても現在では葬儀の形もいろいろで選択肢が多いので、自分がどのようにして見送られたいかを考えて見るのも良いかも知れませんね。

みんなで見送るのも悪くはない

自分の人生が半世紀を過ぎたころから、葬儀に出席することが多くなりました。

両親をはじめ親戚のおじやおば、近所の方たちが高齢になるわけですから、自然な成り行きです。そんな中で私のお葬式に対する考え方が少しづつ変わってきました。

面倒くさがり屋の私は、葬儀なんて残された家族の見栄でやるようなもの、お坊さんをよんで家族だけで簡単に済ませればいいじゃないか、などと思っていたものです。

実際に親戚にも知らせることなく、家族葬の名のもとでひっそりと葬儀を済ませる家庭もあります。それも葬儀のひとつの形だといえるでしょう。

 

しかし私は最近は少し違った考え方をするようにもなりました。数年前に隣のお寺のおばあちゃんが亡くなったとき、それまでの私の葬儀に対する考え方にちょっとした変化が起きたのです。

お寺ということもあり、お通夜も葬儀も自宅のお御堂で執り行われました。お通夜の日には、お参り客にお出しするために、近所の女性数人が煮物などの料理を作りました。

そのメンバーの中に、なぜか私も含まれていたのです。隣の好ということだったのでしょう。料理はお姉さま方に任せて、私は足手まといにならぬよう、物を運ぶなどの力仕事をしていました。めったにない経験です。

葬儀当日はさすがにお寺ですから、たくさんのお坊さんと参列者が来られました。

その光景を見て思ったのですが、「故人は家族だけのものではなく、みんなのもの」だということです。だから係った人たちみんなで送り出してあげるという習わしも、まんざら悪くはないと思えたのでした。

見送ったり見送られたり

仲良かった人とも喧嘩した人ともお別れです。生前は頑固者で厄介がられていた爺ちゃんも、口うるさかったばあちゃんも、旅立ってしまったら、何となく寂しくなるもの(少しだけ?)。

そして先に旅立つ人を見送った後、いつかは必ず自分も見送られることになります。人間、見送ったり見送られたりですね。