昨年の暮れに100才で逝った父。今年の2月で101才になるはずでした。
偶然ですが作家の佐藤愛子さんと同い年です。たまたま目にした佐藤さんに関する記事を読んで、今になって亡くなる直前の父の状態が思い浮かびました。
佐藤さんのお話を読んでいると、100年生きるということはこういう状態になることなのだ、と思い知らされたのです。
耳が遠かったうちの父ですが、幸い認知症にもならず、最後まで私たちと普通に会話ができていたので助かりました。
それでも88才で倒れて以来、杖がないと不安になり、旅行に行くときは空港や駅では車いすを利用するようになりました。車いすでの移動が大いに気に入ったようです。基本元気だった父も、それだけ自力で歩くのが大変になってきていたのです。
そんなうちの父親と作家の佐藤愛子さんが同い年だということは知っていました。が、まだご存命の佐藤さんのお話を読みながら、「100年生きている状態」とはどういうことなのかを改めて理解できたのです。
たまたまネットで目にした婦人公論.jpの佐藤愛子さんに関する記事。
読んでいるうちに、父が亡くなる直前の様子が頭に浮かんできました。「あ~そうだったのか」と今更ながら納得。そしてあの時の父の状態を分かってあげられなかったことが悔やまれます。
佐藤さんによると「100才になって自信がなくなった。誰かにもたれかかっている。疲れる。何もしなくても体が疲れる。ただ座っているだけでも疲れる。面倒くさい。」(記事から抜粋)のだとか。
なるほどね。
思えばうちの父も、老人宛に送られてくる書類などは封も開けたくないようで、私に丸投げ。最も小さい文字で書かれた七面倒くさい文章は、100才でなくても面倒くさくなるというもの。
昔の元気だったころの父がずっと頭にあったものだから、「くたびれる」とか「面倒くさい」といわれるとつい檄を飛ばしてしまった自分を大反省。時すでに遅しではあります💦。
100年の間心も体も使ってきたわけですから、そりゃ疲れますよね。
父最後の日の朝は、私が抱えても起き上がれませんでした。あんなこと初めてでしたが、そこまで体が弱っていたのですね。あの日のお昼過ぎに逝ってしまいました。人生のエネルギーを使い果たしたのでしょう。本当にお疲れさまでした。
父と同い年で101才の佐藤愛子さんのお話を聞いて、最期の父親の様子を思い出してしまいました。
100年を生きるということは、心も体もそれだけ使い切るということ。
うちの父、せめて心は穏やかに逝ってくれたら良いな。
百年の人生完結~父逝く